清須市ピアノ教室 講師紹介

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【幼少】

3歳の時、母の薦めで近くの個人のピアノ教室に通い始める。

厳しい先生で泣いている生徒さんが多かったが、私は泣かなかったので、先生から

「あなたは泣かないから最後までレッスンできたわ」

と言われた。

母は看護師で厳しい人だった。

幼少の頃から私が風邪をひくと、いつも10分程気持ちがたるんでるからと説教された。

でも母の看護師仲間の家族とよく旅行に連れて行ってくれて、皆から可愛がってもらった。

ピアノを習っていたので年長さんの鼓笛隊では指揮者に選ばれた。

 

【小学生】

1年生の頃、10歳年上の従兄にゲゲゲの鬼太郎に似てる(髪型)と言われ、ショックを受けた。

その従兄は、口は悪いが優しくてよく遊んでくれた。

私が遊びに行っている間に夏休みの工作の宿題を全部作ってくれて嬉しかった。

バレないかとちょっと心配した。

バレてたかも。

4年生のときに引越して1時間かけてレッスンに通っていた。

この頃から先生が先生の娘さんに変わり、2人の言っていることが違って、どちらの言うことを聞いたらいいのか迷っていた時期だった。

小学1年生から中学卒業まで、学校の音楽コンクールではいつもピアノ伴奏に選ばれていて嬉しかった。

伴奏譜が無い楽譜は、自分で色々考えて弾いていた。

音楽の先生やピアノの先生に教えてもらえばよかったのに、と今なら思える。

 

【中学生】

音楽部(ブラスバンドと合唱部)に入り、ブラスバンドではテナーサックスを、合唱ではピアノ伴奏専門だった。

学校のリコーダー大会で友達と2人で「フニクリ・フニクラ」を演奏して優勝した。

リコーダーの大会は希望者のみだったが給食の全校放送で流されて嬉しかった。

2年にクラスでいじめに遭う。

キッカケは嫌われていた音楽の先生が、音楽部の顧問だったため、音楽部の生徒をいじめていたらしい。

それが分かってからはあまり悩まなくなった。

自分の中で強くなった気がした。

3年になったら、いじめも無くなった。

高校受験で私は地元の音楽科に行きたかったが、恩師(遠山つや先生)の薦めで上野学園高等学校の音楽科を受験。

運良く合格することができた。

 

【高校生】

寮生活では、食事と言葉(方言)が1番大変だった。

食事は納豆と、醤油味のおでんと白いはんぺんが苦手だった。

ついついお菓子を食べすぎて、10kg太ったのに栄養失調になった。

疲れた時に「えらい(=名古屋弁で疲れた)」というと「誰が偉いの」と聞かれて辛かった。

6人部屋で真上の階が練習室になっていてプライベートもなかったが、

宝塚観劇が1番の楽しみだった。

きらびやな世界とオーケストラの生演奏が魅力的だった。

宝塚のピアニストになりたいと夢見ていた頃だった。

 

【大学生】

伯父から「お母さんが一人で心配だから名古屋に戻っておいで」

と言われ大学は地元の名古屋音楽大学器楽学科ピアノ科に入学。

実家から通うようになったらあっという間に体重が元に戻った。

サークルはリコーダー部、管弦楽団、園芸部と色々やってみて、4年間続いたのはなぜか園芸部だった。

大学1年から出張レッスンを任されて自宅でも近所の人から

「ピアノを教えて欲しい」

と言われてそのまま卒業しても続けた。

 

大学4年 卒業演奏会に出演 

 

【卒業後】

園芸部の先輩だった山本雅士さん [名古屋シティ管弦楽団(現愛知セントラル交響楽団)のホルン伴奏]、中部大学との協演(ガ-シュイン作曲 ラプソディインブル-)。

ウィンドオーケストラをバックにピアノを弾くことができて、高校時代の夢を少し叶えられた気がして嬉しかった。

その後カワイ音楽教室で結婚するまで約3年間講師を勤める。

その間グレードの審査員も経験。

 

【出産】

出産の時、なんと幼稚園時代から一緒に旅行に行っていた母の看護師仲間の人が、分娩室の助産師だった。)

母から「静かに産みなさい 恥ずかしいから」と言われ産後の痛みを我慢したら

看護師さんから「我慢しちゃ駄目」と叱られた。

 

【子育て】

第1子は、幼少時はとっても活発で、買い物に出かけると、行きたい所に走って行くような子だった。

ただ自分が迷子になっている自覚がないので、ウロウロすることはなく私が探しに行くと

「どうしたの?」

という顔をされた。

第2子は、真逆で私から半径50cm離れることは無かった。

喘息の為何度か入院をして心配がたえなかった。

 

自宅の生徒が減ってきたので、もう一度カワイ音楽教室の講師と空いている午前中にパートも経験。

 

【運がいい?】

以前占い師の人に「あなたは運が良いから」と言われ、そう言えば思い当たることが……

以前 卵巣嚢腫で手術をすることになったが、入院の前夜大きなクシャミをして破裂した為 手術自体しなくて済んだことが。

次の日医師の診察で「そのまま帰っていいです」

と言われ、手術はもちろん入院もなかったことに。

今考えると運が良かったってことかな?

 

【感動したこと】

昨年体調を崩したとき、

元生徒さん

「練習頑張ったから先生に聴いてもらいたい。いつかピアニストになりたい。コンクールにも参加したよ。」

その後入賞できたとの報告があり

私「いっぱい練習して頑張ったんだね。おめでとう!」

私は、約3ヶ月間しかレッスンできなかったのですが 今でも発表会やコンクールが

あると知らせてくれる。

入院中辛かった時に勇気づけられて、心の支えにもなった。

また自宅の生徒の親御さんから

「何時でも駆けつけますから」と言われ本当に嬉しかった。

これからも感謝の気持ちを忘れないでレッスンを続けられたらと思う。

 

【自慢の生徒さん】

小学校高学年で他の教室から移ってきた生徒さん。

人前で弾くのがあまり得意ではない大人しい女の子。

私「試しに1度発表会に出てみない?」

生徒「うん(首を軽く上から下に振ったように見えた)」

その後 地道にコツコツと練習をして

発表会も日頃の成果がバッチリ出て上出来。

次の年

私「試しにコンクール出てみない?」

生徒「うん(ゆっくり上から下に首を振ったように私には見えた)」

予選を順調に通過 次の大会では普段やらないような事が…。

私「まだ結果は出てないから諦めないで」

生徒「(泣)」

ギリギリ通過出来て 気を取り直して、最終大会では、何と金賞受賞!!

私「良く頑張ったね!」

生徒「ありがとうございます!

(満面の笑み)」

 

【思い出の生徒さん】

70歳を過ぎた御婦人が 習いに来られました。

女学校時代に戦争でピアノを習えなくなったそうです。

戦後結婚して子育てを終え 仕事で定年を迎えてピアノのレッスンを再開したそうです。

続けたくてもピアノを続けられなかった時を取り戻すかのように熱心に毎日の練習とレッスンに通ってきました。

「もっと練習して上手くなったら発表会に出るから」

私もその日を楽しみにしていましたが それが叶うことはありませんでした。

娘さんから亡くなったという知らせがあったのです。

その年の発表会には他の生徒さん達の前でお話ししました。

「会場のどこかの席に座ってきっと聴いて下さってる」と思って。

その御婦人の娘さんとは、時々お会いしてお母様の懐かしい話をしたり、私の悩みを聞いていただいています。

凄く素敵なご縁だと思っています。

 

【今までを振り返って】

私は幼少の頃から大人しくて口数が少ない子だったので 周りの大人に気づいて欲しいと思っていた。

また今まで辛い経験が多かった気がする。

でもそんな時にピアノを弾く事で穏やかな気持ちになった。

ピアノに出会えたことを感謝してこの気持ちをこれからも沢山の人に伝えていけるように努力していきたいと思っています。